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【東南アジアの貧困】現地に長期滞在して感じる。東南アジアの地方(離島・農村部)経済が停滞する理由を考えてみた

雑記

以前に、タイの農村部へお邪魔する機会があり、現地の生活の苦悩なども踏まえて話を聞くことができたので、今までの経験と併せて思ったことを書いてみようと思います。

東南アジアの発展と闇

ここ数年、東南アジアを転々と放浪してきた。

タイのバンコクなどを中心とする各国の主要都市は近年目覚ましい発展を遂げていることは、改めて言うまでもない。

数年前までは、泥棒市場と呼んで相応しいガラクタや一世代前の偽物ブランド品が並んでいた露店街にも現地の新しいブランドが出店したアパレルショップや、チェーン店とは一線を画すアジアモダンともいえるオシャレなカフェなどが増え、見違えるように洗練されてきた。

 

このような、経済発展や賃金の上昇と同時に、垢抜けた街並みに変化して来たのは、おそらく経済発展に伸び悩んでいた新興国に資本主義や経済・金融の概念を取り入れて、都会を中心にけん引してきた欧米諸国や日本の企業の功績も大きいだろう。

初めは、時間を守ることやもの造りの精密さやクオリティ・安全性の大切さ、コンプライアンスなどを教育する所から始まったと推測される。

地方経済の立ち遅れ

まだまだ、市場主義の文化が浸透しきれていない東南アジアの地方都市(田舎の農村部)を実際に長期滞在してみた個人的感想や考えを書いてみたい。

それは、日本の過疎地とは、また違った不思議で興味深い風景だった。

 

例えば日本の人口減少に悩む地方の一番の問題は、若者の人口流出。それと相まっての仕事不足が問題の根幹かと思われる。

仕事が無いから人が出ていく、人が出ていくから仕事が無いという悪循環である。

 

昔の東南アジアの経済

しかし、新興国のそれはちょっと違う。

東南アジアの田舎では、ほとんどの家族・両親が農業や畜産業などに従事しているが、十数年前までは物々交換で大まかな経済が成り立っていたという。(にわかに信じがたいが現地で聞いた話です)

簡単に言うと現金がそれほど多く必要なかったわけだ。

 

しかしがなら、まず第一次産業の工業化から始まり、急速なIT化などで、電気代、重機設備などの購入費用、ネット環境やデバイスにお金がかかるようになった。

若者はもちろん、農村部の一部の地主以外は両親・祖父母の世代まで現金不足に陥るようになった。

 

ネット通販はまだまだ整備されていないが、情報はインターネットを通じて大量に溢れ、現金収入が少ない地方にも消費意欲だけはたっぷりと促す時代となる。

肉体労働だけでは現金が稼げない、事業の効率化には現金が必要。これまで設備投資はおろか貯蓄や運用の大切さなど考えたこともない人々が、それを稼ぐ手段がない。

現金を稼ぐ手段

日本では都会へ行き、アルバイトでも派遣社員でも贅沢をしなければ、ある程度生活することが可能だ。

ましてや、セイフティーネットが世界一と言われる位で(生活保護や健康保険制度など)餓死するなど考え辛い。

 

しかし、東南アジアの都心部では若者がアルバイトの収入で一人暮らしができる家などほぼ皆無。

最低時給は日本の8分の1程度だが物価は3分の1程度だからね。

 

よって、親戚一同で狭い部屋を借りて共同生活を余儀なくされる。

(核家族中心の現代の日本人からすれば、逆に楽しそうでもあるけど)

 

それに加えて現金収入の少ない田舎の両親に仕送りをするのが、あたりまえの風潮になっている。

実はそれが目的だともいえる。

(日本では親から仕送りをしてもらっている学生親に仕送りをしている学生の比率をどの程度か考えれば分かりやすい)

そもそも東南アジアの田舎の子供たちが学費のかかる大学を卒業して一般的な事務職の正社員になるハードルが日本とは全然違う。

 

当然、余程の技術や才覚に恵まれない限り、貯蓄などできない。それでも、魅力的で新しいものは次々と若者の消費欲を煽る。

 

iPhoneなどが代表定な例である。

月に4万円にも満たない給料で10万円以上の端末をローンで購入するのである。そしてローンを返し終わるころには、新作の登場である。

その借入先は銀行などではなく高利貸しだ。

(特に田舎では消費者金融という名を借りた、反社会組織が貸し付けから取り立てまでを管理している)

 

この、悪循環から抜け出せない地方の人々は、現金欲しさに娘に初めから売春目的で語学を学ぶことを促す事もあるのだとか。

あるいは、育てきれなくなった少女を売り飛ばすなどの行為が未だ一部残っているらしい。

 

数年前、ラオスへ行ったときに、実際に連れてこられたと思われる少女達が詰め込まれた置屋のようなところへドライバーに連れていかれたこともある。未成年と言うより完全に子供達でした。

実際に目の当たりにすると、正義漢ぶるつもりは無いが、流石にドン引きしました。

ありえない仕送りの使い道

そして、両親や家族は、娘たちが身体を売って仕送りしてくれたお金でせっせと宝くじを買うのだ。

(家を買うのが最終目的と言うことが多いらしいが、その資金を宝くじにつぎ込んじゃう・・・)

まさに、村全体に金融教育・道徳教育が行き届いてないことによる負のスパイラルである。

仕事にあぶれ、都心にも適応できない男の子たちは、ギャンブルと麻薬に手を染めるという絵に描いたような話も聞きました。

現地に残った人々の現金獲得方法

出稼ぎに出るのもある程度のお金は必要だ。それが用意できなくて現地に残った人々も現金を稼ぐために地元でお店などを家族経営などで営むこととなる。

 

有名観光地メイン通り以外のローカル商店街などはこうだ。

観光客をターゲットにした、飲食店、お土産屋さんやマッサージ、タトゥーショップなどが立ち並ぶ。

タイならプーケットの南側やランタ島。マレーシアのペナン島やランカウイ島など。

 

ほとんどがメイン通りの一部店舗以外、お客は疎ら。

おそらく一日中営業して一人もお客さんが来ないだろう店も沢山あると思われる。

観光地自体にはそれなりに外国人がやってくるのだが、個人経営で、外れの店は常に閑古鳥が鳴いている。

 

とにかく店の数に対してのお客さんの数。供給と需要が全く釣り合ってない。

お客の数に対して、働き手がダブついてる状況。

お客が少ない理由

理由は一つではないだろうが、自分なりに現地に実際住んでみた感想から考えてみた。

 

自分は大阪生まれで比較的都会(市内ではないですが)で学生時代まで過ごし、東京都心で残りの人生のほとんどを生きてきた。

そして、自らも商売を手掛けていたことがあるので、それに関しては多少詳しいつもりです。

 

そこでは、当然のごとく客の入りが芳しくないお店はどんどん閉店していく。そしてまたすぐに新しい店ができる。

都会は特にこの循環が活発。これが普通だと思ってきた。

 

東南アジアの地方商店街は、とにかく一部を除いて、いや、場所によっては商店街すべての店にお客がいない。

なのに、マッサージ店の店先には何十人ものスタッフが待機して仕事を待っている。

そんなところは、本来ならば必要最低限の店を残して、暇な商店は消滅するはず。

 

しかし、理由は不明だけどそんな店がずっと存続し続ける。

最低賃金などの概念が労使とも希薄だからだろうか?一日1000円程の給料でも、選択肢がないからそこにいるのだろう。

※一日1,000円、東南アジアなら一ヶ月20,000円でもやっていけるんじゃない?と思う人もいるだろう。

しかし、屋台で基本食事をする現地人の一食が200円程。3食で600円。残り400円。シェアハウスならやっていけるかもしれないが、本当に生きるためだけの仕事となることは間違いない。よって共同生活でのその日暮らしとなる。

一度でも大きな病気やケガをすれば借金まみれになるか、黙って死を待つこととなる生活である。実際日本ではなんてことない病気でも、支払いが出来なければ家に帰されて、ゆっくりと死んでいくのが当たり前との話だった。

 

先日滞在したゲストハウスは一日中スタッフがレセプションやエントランスでカウチに横になってスマホを弄っている。(お客さん用のソファーでである)

まぁ、東南アジアの地方ではよくある風景だが。

理由は、「客が居ないから」と彼らは言う。

日本なら逆の理論だ。そんな態度だから客が来ないだと考える。

そして、そこで働いているのは同じ東南アジアやパキスタンなどから出稼ぎにきた外国人労働者も多数。スタッフ同士の国もモラルもバラバラ。

 

現場の従業員がサービス業でお金を稼ぐことがどういうことか?ということ、サービスの根本やホスピタリティーが回り回って収入に反映するということをちゃんと理解していない。

おそらく、経営者側も先行設備投資と言う概念や消費者目線での戦略、従業員の労働環境整備など、当然意識しなければいけないと思われる基本理念が著しく欠落している。・・(ソファーで寝転んでるのが経営者の可能性もあるけど)

 

外国人価格やボッタクリ、過剰な声掛けやキャッチなどは、文化の成熟度が低い証拠だけど、少なくともお金を稼ぎたい気持ちが前面に(間違った方向ではあるが)出ている証拠である。

地方ではその気概でさえ、まったくない店が軒を連ねている。

 

これは、一概に教育と環境による影響が大きいのだと思う。

情報格差が経済格差という言葉が一昔前流行ったが、まさにそれを感じる。情報格差というより、教育格差かな。

戦後の日本も同じだったのかもしれないけど、少なくとも稼ぎたいというやる気は皆の共通点だったと思う。

 

そんな、概念が乏しいせいで、レセプションで寝てるし、接客もおざなり。

先日、薬局で買い物をして会計を済まして、店を出るときに、「扉閉めて行って」と言われた事があった。もともと開いていた扉をだ。

 

そもそも、お客さんを増やそうとしても、どうしていいかが、分からないのではないかと思う。

もしくは、諦めて現状を受け入れてるのかもしれない。

 

そして、仕事のやり方や稼ぎ方も良く分からないけど、消費欲やブランド信仰もあるので、借金もするし貯金もしない。

それが、後々どうなるかも誰も教えてくれない。ということになってしまう。

 

旅を続けるにあたり、そんな現状を日々目の当たりにし、色んな意味で感慨深い心境になっていった。

まとめ

この問題に対して、当ブログで解決策を提示するつもりはない。

当たり前だけど、こんなタダの個人ブログで解決方法が見つかるなら誰も苦労しない。

もしかしたら、現地の人は「別にこれで良いんだよ」と思っているかもしれない。

本人たちが、それで良いなら人様の暮らしに口出しなど、まさに「余計なお世話」である。

 

しかしながら、若者は出来るだけ沢山の可能性・選択肢を享受できる環境に身を置くべきであると、偉そうに思ってしまう。

(貧乏生活のくせに・・)

 

地方創生。日本でも難しい課題。

現在はネット社会なので、金融や経済などの概念を若いころからネットで学んで欲しいとまでは言わないけど、計画的なお金の使い方位は考えておくべきかと思う。

 

ましてや、娘の仕送りで両親が毎週宝くじを買うような愚行が蔓延る現状は、何とかならないものかと思う。

 

貧乏旅行の外国人なので、できることは少ないですが、地方でお世話になるときは、ケチケチ自炊ばっかりしないで、現地のローカル屋台位は積極的に使っていこうと思っています。(根本解決には意味ないけどね)

 

※2018年秋の記事をリライトしました


貧乏人の経済学 もういちど貧困問題を根っこから考える [ アビジット・V.バナジー ]

 

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